Japanese | 得失や是非を一瞬に放せ
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Author Jogye On24-12-27 09:20 Views3 Comments0Related links
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信心銘8
得失や是非を一瞬に放せ
得失是非・一時放却
衆生は絶えず苦楽の因果を続け、輪廻する部類である。仏様は苦楽の因果が最初からないので、放せることさえない境地である。
衆生はなぜ苦楽の因果を断ち切れないのだろうか。それは業が悪循環しているからである。苦しまないよう楽しみを求める。しかし、楽しみは苦しみという果報を生む。得ることはすぐに失うことになり、失って何も無いのでまた得ようとする。しかし、得ることは再び失うこととなる果報につながる。
相手の正しさと私の正しさが対立すると、私は相手の過ちになり、相手は私の過ちになる。それは私と相手、両方の欲から始まったものである。正しさは誤りを生む原因となり、誤りは正しさの結果につながる。是非は互いを頼り、絶えず連続する。
従って、得失や是非は苦楽の因果につながる。善し悪しの分別によりその場で一寸も離れることができず、ただそうやって意味もなく回り回って消えてしまう。こうしても苦楽の因果から抜け出せず、ああしても苦楽の因果から抜け出せなくなる。こうしてもああしてもその場に留まるだけで、変わることは何もない。
それで仏様や悟った祖師様たちはこれも放し、あれも放し、全てを放す「放下着しろ」と話した。そうすると、引っかかりがなくなるので、六根(目・耳・鼻・舌・体・考え)が清浄になり、見えるものに引っかからず、聞こえるものに引っかからず、考えるものに引っかからない。
引っかかりがないと、心は自由自在になるのでこうしても良い、ああしても良い。何が良い、悪いがあるだろうか。何が正しい、正しくないがあるだろうか。良いものだという心を放すと、悪い果報が消える。正しいものだという分別の心を離すと、間違ったことが消える。安らかな心という分別を放すと、不安という果報が消える。
分別する心を持ち、因果の世界で絶えず輪廻しながら生きるのか。それとも得失や苦楽、是非の分別心を一気に放し、中道の邪魔にならない悟りを得るのか。純粋に自らが選択する問題である。
祈りと参禅、布施と精進は分別の心を放せる最も基本的な修行である。
頌
得ることは失うことを生み、正しいことは間違いを生み、
得失や是非をそのまま手放しすると、
引っ掛かるものがなく自由自在になるので、
何も問題になる素地がなくなる。